【七転び、八起き。】崎田 和伸ブログ

崎田 和伸ブログ。行政書士法人 Asumia 代表社員行政書士。広島県広島市。

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【勝手に想像】本能寺の変が起きたワケ

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織田信長

↑ 織田信長とされている肖像画 ↑

 

 

明智光秀

↑ 明智光秀とされている肖像画 ↑

高校時代、歴史98点、数学20点でした。
好きこそ物の上手なれ。
歴史にはとても興味があり、記憶にも残ります。

今回、間違いなく中世の歴史の分岐点ですね。
本能寺の変が起きたワケについて、書かせてもらいます。

たぶん、長文です・・・・(^_^;)

~~~

本能寺の変は、1582年6月21日に起きた、明智光秀の謀反です。
織田信長は死亡。
ご存じですね。

当時信長は、第3次 信長包囲網を突破しつつあり、武田信玄の病死により、天下統一が間近とされていました。

領土は、兵庫くらいから関東の手前まで、というものでしたが、実質的には、天下統一の直前といえる状態でした。

もう、包囲網を作ることができないくらい、敵対勢力が弱まっていた。
同盟を結び、団結するちからが残っていない。
あとは各個撃破または降伏させて、統一事業をしてゆく状態、ですね。
 
また、自分自身で攻略に向かわなくても、優秀な部下がたくさん育っている状態だったので、時間もかからない状態でした。
 
~~~

そんな中、突如、起きたのが、明智光秀の謀反。
つまり、本能寺の変です。

1582年6月21日。

今回、好き勝手に、本能寺の変が起きたワケについて、
考えてみようかと思います。
ほんと、好き勝手に(^_^;)

つまり、どうして明智光秀は謀反したのか?です。

わたしが今まで、ワケについて、見聞きしてきたものは、次のとおりです。

1.恨んでいた。

2.恐れていた。

3.何かを守ろうとしていた。

4.陰謀にハマって、騙されてしまった。


以下、簡単に解説してみますね。

~~~

1(恨んでいた)について。

本能寺の変の3年前。1579年に、光秀は、母親を殺されています。
丹波の統一のために戦争していたとき、人質交換で、自分の母親を敵地に送ったあと、交換した人質(波多野兄弟)を、信長が勝手に殺してしまった。
当然、敵は、とっている人質を殺します。
光秀の母親は、実質的には、信長によって、殺されてしまいます

1582年前半のこと。
家康接待の役目を担った時、料理の不手際で、信長によって強い叱責を受けます。
実際には不手際は無かったとされています。
信長が、薄味の京料理が気に入らなかった、という説が強いですね。

同じ1582年前半のこと。
その当時、慈しみ深く治めていた、自分の領地を、急に信長は没収宣言します
信長はその代わりに、まだ敵国であった領地を与えました。
これは、とんでもないことですね。

恨み骨髄に至るものばかりですが、実は、自分の家臣に「自分(光秀)がここまで出世できたのは信長様のおかげだから、自分が死ぬようなことがあっても、ずっと忠義を尽くしなさい」と家訓のようなものを遺していた、という、異常なまでの律義者でもありました。

~~~

2(恐れていた)について。

当時、手柄の少ない、能力の低い武将の「クビ」が始まっていました。
歴代の家老職でも、例外なく、クビになっています。
そのうち自分も・・・・と考えても仕方ない状況でした。

~~~

3(何かを守ろうとしていた)について。

信長は、自分のことを「神」のように称することがありました。
最初、冗談かと思ったようですが、どうやら信長、本気のようで、自分の化身である、大きな石を、家臣に拝ませていたそうです。

ご存じのとおり、信長は、既存の概念やシステムを、ことごとく、打ち破ってきた人。
日本の歴史上、ずっと続いてきた、「天皇制度」も、例外ではありません。

光秀は、天皇制を廃することをとても恐れていて、天皇を守るために謀反した、という説もあります。

また別の話で、当時、四国を治めていた長宗我部元親を守るため、とも言われています。
光秀と、その家老である斉藤さんは、長宗我部家と、親交があった。
最初、信長は「四国は長宗我部元親に任せる」と言っていたのに、いつの間にか、四国攻略軍が組織され、侵攻の目的になっていました。
光秀とその家老は、一回約束したことを反故にすることができなかった

~~~

4(陰謀にハマって、騙されてしまった)について。

よくある話です。
殺人事件が起きて、誰が犯人だ!?というときに、「最も得をした人間」という、あれです。

本能寺の変が起きて、最も得したのは、まあ途中苦労はありましたが、羽柴秀吉ですし、その後に天下を獲った徳川家康です。

羽柴秀吉または、徳川家康が、光秀と諮り(はかり)、光秀に謀反を起こさせた、という説です。

~~~

いや~長かった・・・。
では、結論。
わたしなりに、勝手に想像した、本能寺の変が起きたワケです。

2(恐れていた)です。
正確に言えば、2(恐れていた)に、いくつか要素が加わったもの。

1(恨んでいた)で、家康の接待役での叱責、がありましたね。

あれ、信長は家康を暗殺しようと思っていたのではないか?と思うんです。

天下統一を前にして、粛清というのは、歴史上、よくある話です。
信長は、その準備を進めていた。

まず自分の家臣のうち、手柄の少ない者をクビにしました。

その次に、力のある人を排除する。

その一人目が、同盟国の君主であった、徳川家康

徳川家康が死んだら、その息子が跡を継ぎますが、その息子、松平信康といいますが、1579年、自害しています。
信長の指示ではなく、信長への謀反の疑いに対する、家康の判断です。
実質的には、信長の指示に近かったのかもしれません。

松平信康は、比類ない優秀さで知られていたそうです。
家康の跡を継ぐ予定だった信康は自害となりました。
信長が関係して、です。

結果、家康が死んだら、跡を継ぐのは、徳川秀忠
こちらは、優秀という評判は立たなかったようです。

事実、後世の関が原合戦では、東軍の約半分を率いながら、決戦に間に合っていません。
家康は、関が原合戦において、秀忠の遅れによる圧倒的な不利を乗り越えて勝利を得た、とういうわけです。

1582年当時、家康が死んだら、秀忠が跡を継ぐ可能性が高かった。

その当時、すぐに徳川家がなくなるのは、避けたかった。
関東には、北条が残っていましたし、越後、上杉家も残っていた。

東からの勢力拡大に対する備えは必要だった。

でも、家康ほど優秀でなくても良かった

どうせ、あとで滅亡させるのであれば、愚鈍な君主の国のほうが都合がいい

こういうワケで、
光秀には、「接待の席で、家康を毒殺しろ」と命じていたのでは?と思うんです。

なのに、光秀は、暗殺しなかった。

決定的な命令違反ですが、信長としては当然、表沙汰にできないことですから「強い左遷」という方法をとらざるをえなかった。

その左遷として、光秀には、秀吉の下に就く形で、援軍に向かう、という形になりました。

農民出身の秀吉に命令される立場です。

~~~

援軍として向かうのですがこれ。

もう、将来、ないですよね?

次は、自分が粛清される」と思いませんか?

わたしなら、そう思います。

ついてきてくれている家臣は、そのほとんどが浪人になります。
その家族も路頭に迷います。

自分の身の上のこと以上に、ほんと、怖いですね。

3で書いたように、いろいろと守りたいものもある。

当然1の恨みもある。

結果、本能寺の変、です。

本能寺の変の当日の記録は定かではありませんが、中国地方を攻めていた秀吉の援軍に向かうはずのに、方向が全然違う。

本来なら、家臣団は、動揺を隠せませんよね。
離反者が出るかもしれません。

でも当日、兵の離脱や、重臣の謀反は一切、起きていません。(たぶん)

これは、信長への謀反が、家臣団には、とっても納得ゆくことだったのでしょう。

一糸乱れず、本能寺へ向かい、信長を討っています。

ちなみに、織田信長の長男、信忠も、同じ本能寺の変で、光秀に殺されています。

京都二条御所の戦闘で、奮闘したあと自害したと言われています。

~~~

そのうち自分も・・・

と恐れていたものが、

絶対、自分は、粛清されると、確信に変わった。

直接的なワケは、これじゃないか?

そう思います。

ということで、いや~長文でした。
ここまでお読みくださったあなた、本当にありがとうございます。

最後に、光秀の肖像画をご紹介して、終わります。

 

 

明智光秀

 


以上、投稿者 崎田 和伸でした。



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※1 平成25年10月~平成26年9月。
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※2 平成25年10月~平成26年9月。広島県内の行政書士への依頼体の3分の2を想定。
※3 平成25年2月と平成26年9月の当社受任数の比較です。

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